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【核家族論3】
 祖父母はいつから孫の成長にとって重要になったのか?  2007.17



3世代家族にこだわるわけ

 私は3世代家族で育った。私にとっては3世代で育ったことは、悪いことではなかったと思う。ただ、そこにはかなり複雑な思いがある。

 それは、私の母と父の父、つまり私の母と祖父との関係が、悪いとまではいかなくても、かなり難しいものだったからだ。直接的な衝突や喧嘩はなくても、押さえ込んだ感情が、母の心の中に渦巻いているのが、子どもながらに分かった。子どもたちは、そうした母の感情の間をすり抜け、 あるいは遠巻きに見 、あるいは利用し‥‥
 だが、 私が長じてから、 両親は祖父と一度だけの決定的な喧嘩をし、家を出てしまった。住む家も何もなくなって、苦労したと思うのだが、母は気が楽になったようで、生き生きと外で働き出した。職場に友だちができ、職場の若い人たちにも目が向くようになった。そのせいか、あれはいけない、これはいけないと娘を拘束することも少なくなった。
 なので、 私はその頃から3世代より核家族の方がいいと漠然と思っていた。その方が自由で、「民主的」な家族のはずだと。
 私が今、3世代家族で育ったことが悪いことではないと思うのは、そうした複雑な関係が3世代家族にはある(あるいは、あった)ということを知ることができたから、というかなりひねくれた思いからだ。

 もちろん、3世代でとてもうまくいっている家もあるだろう。学生に聞くと、3世代家族で良かったと胸を張って答える学生が多い。だが、それは個別の家族の問題というだけでなく、時代の変化が大きく関わっているのではないかと思えてならない。今の3世代家族と、私が育ったようなかつての3世代家族とを、同じものと見なすことはできないと思う。
 なのに、かつては3世代家族が多くて、祖父母がいたから、子どものしつけが良くできていたなどという、あまりに単純な議論が多すぎる。1970年代まで、いや80年代まで、3世代家族にはいかに問題があるかが繰り返し指摘されてきたはずだ。そうした議論がすっかり忘れ去られているのが、私には不思議でならない。


おばあちゃん子

 3世代家族に関する見方は、どれほど変わったのか。2つ例を挙げたい。

 1つ目。今、「おばあちゃん子」というと、多くの人は甘えん坊というイメージ以上に、優しくて思いやりのある子をイメージするのではないだろうか。だが、かつては必ずしもそうではなかった。「おばあちゃん子は3文安い」などということばもあったくらいだから。

 辻正三は、1954年に発行された本の中で、次のように書いている(津留宏他編『親子関係』福村出版)。

 「現在までのところ、わが国ではなお相当数の幼児が、主として祖母によって養育されている。
 いわゆる『おばあさん子』の心理的行動的な特徴としては、『甘ったれで泣き虫で、 気に入
らないことがあると、すぐおばあさんに 泣きついていく』ことがよく問題にされる」(193頁)

 だが、おばあさん子について学問的に検討したものは案外少ないとして、以下、いくつかの調査や所見を述べる。それが、先のイメージを覆すのかと思いきや、さらにネガティブである。いわく(194-頁)。

 ・おばあさん子の欠陥は社会的態度の面にありそうだ
 ・おばあさん子は相対的に見て逃避的な適応が多く、攻撃的な適応が少ない
 ・祖母が孫を一方的に甘やかす態度になりやすい傾きがある
 ・母と祖母の教育方針が対立する場合、子どもは易きについて、甘い方の秘 
  蔵っ子になるか、かげひなたのある要領のいい子にならざるを得ない
 ・筆者が都内の小学生を対象として行った調査では、祖父母の人気はあまりかんばしくない

 かなり独断と偏見に満ちた随分な書き方だが、辻の結論は、「祖父母の世代が同居する家庭では、どうしても人間関係が複雑になりやすく、それが子供の人格形成にも、好ましくない影響を及ぼす可能性が増大する」(200頁)ということである。次に挙げる佐藤修策も同様の見方をしている。


登校拒否と3世代家族

 「登校拒否」に関するおそらく最も早い時期に書かれたまとまった文献として、佐藤修策『登校拒否児』(国土社)がある。この本は、
1968年の発行だが、同書によれば、19578年頃から、「従来の拒否とは本質的に違う新しい型の登校問題」、つまり登校拒否が「脚光をあび始めた」(「はじめに」)という。
 佐藤は、精神科医などが収集した事例に関する家族構成の特徴をまとめている。それによると、登校拒否児の家庭は「欠損家庭」が少ない、祖父母の同居が3割〜6割ある、社会的・経済的に安定しているとし、「学校恐怖症児はその家族構成においても十分恵まれて」いる(478頁)と見ている。
 佐藤は、それゆえに、過保護や「養育意識の過剰」(愛情、教育、期待などの過剰)を問題視している(180頁)。もっとも、過保護なのは主として母親で、父親はむしろ不在を問題にしているのだが。
 面白いのは、こうした「過保護的養育態度」「養育意識の過剰」の原因として、祖父母、とくに祖母が、少なから登場することだ。たとえば、佐藤は次のように言う。

 (祖母が母の実母である場合)「母親は祖母に依存し、子どもは母に依存している。 
 祖母の母に対する態度と孫に対する態度には、本質的な差はみられない」(79頁)
 (母が嫁である場合)「祖母と子どもの間が固着的であり、子どもは生活のほとんど
 を祖母に依存していることに対し、母は、一般的に自分の子どもに十分教育できない
 ことへの不安と焦り、母親の役割の弱化からくる母への敵対心から、祖母、母、子ど
 もの間に葛藤を生む場合が多い」(79頁)

 これだけ読むと、祖母が母の実母の場合は、母が嫁である場合よりも問題が少なそうに思えるが、実は前者の方が「祖母と子どもとの結びつきにおいて障害が大きく治療がむずかしい」(7980頁)という。ともあれ、祖父母の存在は、子どもにとって望ましいものとは捉えられていないのだ。
 登校拒否・不登校は、今日では、当然のように、核家族化や都市化がもたらしたもののように語られていることからすれば、核家族化が言われた1960年代に、3世代家族において登校拒否が少なくないと捉えられていたことは、記憶に値すると思う。


3世代家族の変化

 このように、かつて祖父母の存在は子どもの発達成長にとって、好ましいとは捉えられていなかった。

 それが、なぜ今、3世代家族の方が子どもの養育にとって望ましいと言われるようになったのか。単なるノスタルジーではないだろう。若い世代もそう考えているのだから。
 それは、おそらく一つには、3世代家族のあり方が変わったからだ。辻正三や佐藤修策が批判したような、教育の主導権を握る祖母や、子どもの教育方針をめぐって母と争う祖母は、今はほとんどいない。いや、いるかもしれないが、少なくとも、そうした祖母は議論の前提として想定されていない。
 だが、高度成長期以前の3世代家族では、育児のオピニオン・リーダーは、母よりもむしろ祖母であった。このことは渡辺秀樹論文を読むとよくわかる(「戦後日本の親子関係」目黒依子・渡辺秀樹編『講座社会学2家族』東大出版会、1999)。
 今は、祖父母が孫の教育に口出しをすることはあっても、親以上の権限を持っている訳ではない。子どもを教育するのは基本的に親の役割であって、祖父母はそのお手伝いや補助にすぎない。祖父母が親の補助者・援助者として位置づけられるようになった結果、祖父母と親との対立や葛藤は、実際にはあっても、3世代家族の持つイメージから除外されることになったのだろう。ちびまるこちゃんやサザエさんの家庭のように。

 もう一つ考えられるのは、核家族への批判が一般化したからである。
 1960年代までは、様々な現実の問題は指摘されていたが、核家族こそ家族の基本形であるという理念や理想は保持されていた(核家族論2)。
 ところが、70年代に入ると、核家族化があらゆる教育問題や青少年問題の原因として位置づけられるようになる。その結果、実際の3世代家族の問題は、ほとんど顧みられないまま、かつてとは逆に、 子育てにとって理想の家庭として3世代家族がイメージされるようになった。

 つまり、同じ3世代家族といっても、1950年代や60年代までの3世代家族と現在の3世代家族とは大きく異なる。にもかかわらず、昔は3世代家族が多かったから子どものしつけが良くできていたといったことが言われる時、そこでイメージされているのは、今の優しくて、うるさく口出しをしない祖父母だろう。子どもの教育の実権ばかりか、一家の財布を握り、家事や家業を指揮したかつての祖父母が想定されているわけではない。

 一家の家長として実権を握って放さない祖父(舅)から、戦後の新制中学校の1期生世代の母は逃げ出した。そんな母の人生を思う時、昔は3世代家族だったからなどといったことは、私にはとても言えそうにない。

P.S.なんて、書きましたが、母はずっと妹夫婦と孫と一緒に暮らしています。多分、 今風のおばあちゃん をやっているのでしょう。