【同性婚と養子】
 トーチソング・トリロジー(アメリカ1988)
 2006.1229



 日本の国会では全く議論されていないが、ヨーロッパを中心に、同性婚や同性のパートナーシップに関する法律の制定が進められている。婚姻を認めているのは、オランダ(
2000年成立)、ベルギー(20032005)、スペイン(2005)、カナダ(2005)と、まだ多くはないが、パートナーシップ法や同棲法、連帯市民契約法といった名称で、同性カップルの法的な権利を認める国は、相当数にのぼる。
 世界の同性婚の動向については、下のサイトに詳しい。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E6%80%A7%E7%B5%90%E5%A9%9A
すこたん企画 http://www.sukotan.com/index.html
ジェラス・ゲイ http://homepage.mac.com/ehara_gen1/jealous_gay/index.html

 これらの国では、もはや同性カップルを法的に認めるかどうかが問題ではなく、焦点は養子や体外受精など、同性カップルに子どもを認めるかどうかに移っている。


Torch Song Trilogy

 ところで、私の最も好きな映画は、「トーチソング・トリロジー」(アメリカ、
1988年)。ハーヴェイ・フィアスティンが脚本を書き、女装のゲイの役を主演した。ユーモアあふれる軽妙な会話がとても楽しい。
 人物像も鮮やかだ。「最後の女装のエンターティナー」と自ら言いながら、堂々とゲイとして生きる主人公のアーノルド(ハーヴェイ・フィアスティン)、ゲイであることを隠す最初の恋人エド(ブライアン・カーウィン)、アーノルドとの関係を隠さず、「結婚」を申し込む若く美しい恋人アラン(マシュー・ブロデリック)、息子がゲイであることが認められない母(アン・バンクロフト)。
 アーノルドが母親と対決するクライマックスは、何とも切なく、そして愛おしい。「毎日毎日、世界のあらゆるものからゲイになりなさいと言われたらどう思う!?」と母に言うアーノルド。「何でもっとちゃんと私に話をしてくれなかったの!」と言う母親(確か、こんなセリフ)。ゲイであることを恥じないで生きてきたはずのアーノルドも、実は、母親にこれまで正面から向かい合ってこなかったことに気づく。あの妖艶なミセス・ロビンソン(「卒業」1967年)が、などと思いつつも、気丈でコワイ母親役のアン・バンクロフトがとてもいい。

 この映画をはじめて見た時、正直なところ、一番、驚き戸惑ったのは、アーノルドが養子をもらうことだった。養子といっても、ティーンエイジャーだが。養子のデイヴィッドもまたゲイで、小さい頃アビュース(虐待)を受けていた。
 アーノルドの母は、デイヴィッドが息子の養子で、しかもゲイだと知った時、驚嘆して言う。1年一緒に暮らしたくらいで「(デイヴィッドは)もうゲイになってしまったの?」と。そんな母に、アーノルドは、自分の親はゲイではなかったのに、自分はゲイになったと言って笑う。「なぜ自分がゲイになったのかなんて分からない。気がついた時はゲイだった」。
 私は、母親の「もうゲイになってしまったの」という言葉に引っかかってしまったのだ。おそらく、母親の言葉は、ゲイでないマジョリティの疑念を代弁している。だから、わざわざハーヴェイ・フィアスティンは、母親にそう語らせ、アーノルドに反論させたのだろう。その意味では、デイヴィッドはゲイでなくてはならなかった。
 だけれど、もしデイヴィッドがゲイでなかったら? 幼い男の子だったら? あるいは女の子だったら? あの映画はどのような展開になったのだろうか。あるいは、映画を見たマジョリティは、そして私は、どのように受け止めただろう。

 そんな風に考えてしまうのは、一つには、アーノルド自身、異性愛の男の子や女の子を受け入れることができるのだろうかと思ってしまったからだ。もっともこれは、私のゲイに対する偏見かもしれないが。
 もう一つは、フィアスティンが、マジョリティに受け入れやすいように、デイヴィッドをゲイであることにしたのかもしれないと思うからだ。ゲイの子を養子にするのならまだ分かるけれど、そうでなければ認めない。そんなマジョリティに対するフィアスティンの妥協であり、限界ではないかと。
 いや、それはフィアスティンの限界というよりは、マジョリティがゲイに対して築いている最後の壁・限界なのだろう。だからこそ、私としては、フィアスティンにこの壁・限界を壊して欲しかった。その時、私はどう感じるのか。私自身の壁・限界を知りたくもあった。


同性婚と養子

 しかし、である。「トーチソング・トリロジー」は
1988年の作品。今やこうした壁や限界はだいぶ壊されているのだろう。同性婚の法定によって、養子が認められるようになったからだ。パートナー法でも、たとえばイギリスでは養子を認めているという(シビル・パートナーシップ法、20042006年)。ブッシュ大統領が同性婚に反対しているアメリカでも、ニュージャージー州などで養子を認めるようになった(2006年)。もっとも、アメリカではこうした法が制定される以前から、同性カップルへの養子斡旋が行われてきたようだが。
 ともあれ、同性カップルに養親になる権利を認めるということは、これまでの「常識」からすれば、とてもすごいことなのではないかと思う。それは、『日本経済新聞』と『毎日新聞』が報じた次の記事を読むとよく分かる(200226日)。

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 同性愛者カップルでも「健全な家庭」 養子問題で全米小児医学会

 【ニューヨーク5日共同】全米小児医学会は5日までに、同性愛カップルの養子問題についての包括的な検討結果をまとめ、「両親」が同性同士でも子どもには異性の両親と同様の「愛情があり、安定した心理的にも健全な家庭を与えられる」と発表した。同学会は会員約55000人の有力な専門家団体。
 小児の心理や発達などに関する最新の研究結果に基づいて、ゲイやレズビアンの親に育てられた子どもと、一般の親に育てられた子どもの間には「心理や認識力、社会的・性的機能の側面で違いはない」と結論。子どもの発達は「(同性の両親という)特別な家族構造」に左右されるというよりも「家庭内の関係」に影響される面が大きいと指摘している。
 その上で、ゲイやレズビアンのカップルの養子に対して法的にも医療的にも異性の夫婦の子どもと同じ権利を与えるよう求めた。
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 要するに、同性同士でも、異性の親でも、親としての役割や機能という点では変わらないというのだ。
 とすれば、私が「トーチソング・トリロジー」を見て感じた戸惑いなど、ほとんど意味はなくなる。ゲイだからゲイの子を育てることができるなんてことではなくて、同性カップルが育てた子と異性の親に育てられた子どもの間には、「心理や認識力」はもちろん、「社会的・性的機能の側面」でも違いはないということなのだから。


父なるもの・母なるもの

 そればかりか、長い間「科学的」な根拠のあるものとして言われてきた父と母という役割や機能は、何だったのかということにもなる。精神医学や心理学・教育学にしても、あるいはパーソンズなどの社会学にしても、父=規範、母=受容といった役割・機能があり、その両方があって、はじめて子どもは健やかに育つというように言ってきたのではなかったか。

 もちろん、これまでも、父=父性、母=母性といった単純な見方は批判され、かつての母性・父性は、両者を総合して、「親性」とか「育児性」とか「次世代育成力」といったことばで表されるようになってきた。その意味では、全米小児医学会の見解は、こうした「親性」「育児性」の延長線上にある。
 しかし、それでもやはり、全米小児医学会の見解は画期的だと思う。「親性」にせよ、「育児性」にせよ、やはり父と母という性別の存在が暗黙の前提になっている。ところが、全米小児医学会の見解は、親は父と母という組み合わせでなくてもかまわない。父と父、母と母であったとしても、同じことだということなのだから。ジェンダーの意であれ、セックスの意であれ、父と母という性別の組み合わせは、親になる際にもはや問題とはならない。

 もっとも、デイヴィッドはアーノルドを ''Ma'' と呼んでいて、どう見ても、アーノルドは父ではなく母そのものだった。そう見えてしまうのは、これまで父と母という枠組みしかなかったからだろう。親であることと性別が切り離されても、文化が蓄積してきた父と母という枠組みは根強く残るのかもしれない。                          


【追記】
 
この原稿について、次のような批判を受けた。「トーチソング・トリロジー」の面白さは、アーノルドが男か女かという2分法で捉えられない性の柔(重)構造を体現していることにあるのではないか。それが、私のこの文章では、結局のところ、男と女、父と母という枠組みにアーノルドを押し込めている。
 言われることはよく分かる。作品論としては、その通りだと思う。ただ、私としては、それでもなお男と女を分けるジェンダーの線引きにこだわっている。  2007.22