【青年期論
 1980年代、苦悩する青年は「ネクラ」になった  2006.89





 「思春期」のページで、私は「古典的な思春期」を過ごしたと書いた。しかも、かなり「重症」の。ここでは、なぜ私が「重症」だったのか、そして、なぜ思春期や青年期が誰にもあると捉えられてきたのかについて考えてみたい。
 ところで、授業で学生に聞いてみた。自分には思春期があったと思うか、なかったと思うか。結果、「なかったと思う」という人の方が多かった。
 数人の学生は、「自分にはほとんど思春期はなかった。思春期がないと後で困るというように聞いていたので、自分は大丈夫なのだろうかと心配していた」といったことを授業の感想文に書いていた。「学問」というのは、なかなか罪深いものだと思う。


「一般的」な思春期

 文部科学省は、親向けに『思春期の子どもと向き合うために』という冊子を出している(ぎょうせい、
2001年)。そこには、思春期は「揺れ動く危うさの時代」であり、その「危機」は「大人になるために必要不可欠な要素」「大人になるための必然の過程」であると書かれている(1213頁)。
 思春期・青年期のあるべき像は、今も変わらず説かれているのである。しかも、「大人になるために必要不可欠な要素」などと書いてあるのだから、学生が不安になるのも当然だろう。
 にもかかわらず、同書はこうも書いている。「ここで描かれているのは、あくまで一般的に考えられている思春期の子どもたちの姿です。したがって、自分の子どもが当てはまらないからと言って、少しも悩む必要はありません」(20頁)。
 読んだ人はこれで納得するのだろうか。「一般的」とはどういうことか。なぜ「一般的」と言えるのかが問われなくてはならない。


青年期前期の成立

 まず、いつ「一般的」な青年期が成立したのかについて考えてみよう。

 第一学習社の「現代社会」の教科書には、 青年期が「一つの独立した時期と見なされるようになったのは20世紀」と書いてあり、三省堂の教科書にも14歳から17歳頃の「青年期前期」が「20世紀はじめ」に成立したとする図を載せている。
 なぜ20世紀初めなのかは、下のグラフを見るとよく分かる。20世紀初めは、小学校に通うことが当然のことになり、それとともに、中等学校に進学する人が急速に増えた時代である。
 「青年期前期」を創出した主な中等教育機関は、男子は中学校、女子は高等女学校である。これらの学校では、小学校卒業後の12歳から45年の間、つまり、1617歳まで、教養主義的な教育が行われた。
 だが、こうした中等学校に進学した者は半分に満たなかった。戦前の子どもの多くは、小学校を出た12歳か、「高等科」あるいは「高等小学校」を卒業した14歳ごろから働いていた。
 つまり、この時代、167歳まで中等学校に通う子どもと、12または14歳で学校を終え、働く子どもに大きく分かれていた。
 だが、12歳ほどで働き出した子に、大人になるための準備機関である青年期があったと言えるだろうか。20世紀初頭は、多くの若者に青年期が保障されていたわけではない。中等学校に通う上層部の若者の間で、青年期が成立した時期である。
 一方、「青年期後期」を保障する高等教育への進学率は低かった。1918(大正7)年の大学令により、専門学校だった私立学校が大学となるまでは、大学は帝国大学のみ。専門学校、高等師範学校などの高等教育全体の進学率は、19202.2%だった。ちなみに、旧7帝大の設立年度は以下の通り。

    東京帝国大学(1877年東京大学開設→1897年東京帝国大学へ)
    京都帝国大学(1897創設)   東北帝国大学(1907年)
    九州帝国大学(1910年)    北海道帝国大学(1918年)
    大阪帝国大学、大学(1931年) 名古屋帝国大学(1939年)

 以上は基本的に男子のための大学である。戦前、女子の大学進学を認めたのは一部の大学にすぎず、女子高等師範学校や女子専門学校が女性にとっての高等教育だった。その進学率は、戦前はせいぜい1%程度だったと言われている。


坊ちゃんと三四郎

 話は横道に入るが、私が中学生だった
1970年代、夏目漱石の作品は夏休みの課題図書に必ず入っていた。それが、今思えば不思議でならない。
 『坊ちゃん』が書かれたのは1906(明治39)年。物理学校を卒業した主人公が、松山の中学校で教師をする話である。『三四郎』は1908(明治41)年に『朝日新聞』に連載されたもので、熊本から上京して東京帝国大学へ進学した大学1年生が主人公である。
 私が不思議でならないのは、これらの作品が書かれた時代に、大学に進学した人は、1%に満たないと思うからだ。しかも、男子のみ。そうした時代のごく少数のエリートを描いた小説を、どうして中学生がみな読むべきなのか。私にはどうも分からない。今からすれば大学進学率が極めて低かった戦前、『坊ちゃん』や『三四郎』は、誰に、どのように読まれていたのだろうか。
 もっとも、こんなことを言っていたら、中学生に読ませるにふさわしい近代小説なんて、ほとんどないのかもしれないが。


青年期の大衆化

 なんてことを書いていたら、きりがないので、先に進みたい。
 中学校が義務教育になったのは戦後である。新制中学校が発足したことの意味について、滝沢一廣は次のように書いている(『新しい思春期像と精神療法』金剛出版、2004年、93頁)。

  戦後、1947年の中学校義務教育化がもたらした最大の社会的な変化は、15歳までを全員なお教育を必要とする「被教育者」、すなわち子育て途上の「子ども」と扱う社会が生まれたこ とにある。
  
 新制高校への進学率は、戦後の発足当初は40%ほど。1960年代に大幅に上昇し、1970年代半ばに90%を超える。この時期、学校に通う学生と「勤労青年」という「2つの青年期」が、ほぼ解消され、大多数の若者に18歳までの「大衆的青年期」が保障されることになった(「青年期の大衆化」)。
 大学・短大の進学率は、1950年代半ば、男子約15%、女子5%。1960年代に急速に伸び、1970年代半ばには男子40%、女子33%に達する。だが、それ以降は横ばい、あるいは微減が続く。その一方で、1975年に法制化された専修学校への進学が徐々に増えていく。
 マーチン・トロウは、進学率が15%を超えると、エリート段階からマス段階に移行すると述べたが、大学だけを見ると(短大を含まない)、進学率が15%を超えるるのは1969年である。もっとも、男子については、1961年にはすでに15%を超えている。女子は、なんと1990年だが。
 ともあれ、1960年代から70年代半ばまでの進学率の上昇によって、高等教育はごく一部のエリートのための教育機関ではなくなった。大学・短大が大衆化し、「青年期後期」が普及したのである。
 大学・短大進学率が再び上昇するのは、1990年代である。以後、増え続け、2005(平成17)年の進学率は男女合計で51.5%。内訳は以下の通り。

   男子  大学 51.3%  短大1.8%   計53.1
   女子  大学 36.8%  短大13.0%   49.8
   計   大学 44.2%  短大7.3%   計51.5

 これに専修学校への進学率を加えると、1990年にはおよそ50%、1995年には60%、2000年には約70%に達する。つまり、現代は、若者の70%以上が20歳〜22歳まで、中等後教育を受ける時代になった。

 こうして見ると、いかに戦後、急速に青年期が延長し、かつ、大衆化したかがわかる。1947年には15歳まで、1970年代半ばには18歳まで、そして、2000年には2022歳までの青年期が、多くの若者に保障されるようになったのである。
 なかでも、1970年代前半の高校の「準義務教育化」が青年期のイメージを大きく変えたのではないかと思う。高校の「準義務教育化」によって、「2つの青年期」は解消され、誰もが基本的に同じ「青年期」を過ごすと見なされるようになったからである。この時期に、「一般的」な青年期が確立したのである。
 その「一般的」青年期の確立に理論的に根拠を与えたのが、青年期心理学である。青年期心理学で最も有名なエリクソン(19021994)の翻訳書をWebcatから拾うと、以下の通り。1970年代に相次いで出版されている。

 『幼児期と社会』〜日本教文社(1954)、みすず書房(19771980
 『アイデンティティ青年と危機』〜北望社(1969)、金沢文庫(1973
 『青年の挑戦』〜北望社(1971
 『自我同一性アイデンティティとライフサイクル』〜誠信書房(1973


「疾風怒涛」の青年期

 かくして、青年期は誰にもあると見なされるようになった。しかし、それゆえに、かえって青年期心理学が描き出すような青年期危機や葛藤と、多くの若者が生きる実際の青年期とは、大きくズレていったのではないかと思う。

 たとえば、「現代社会」の教科書に青年期を表す語として決まって出てくる「疾風怒涛」(シュトルム・ウント・ドラング、Sturm und Drang)。今の若者のどれほどが、「疾風怒涛」の青年期を生きているというのだろうか。

 「疾風怒涛」は、18世紀ドイツの文学革新運動のことで、その代表作が、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1774年)である。ウェルテルは、婚約者のいる女性への思いに悩み、他に生きる意味を見出すことができず、自殺してしまう。ドイツ文学者の義則孝夫のHPによると、『若きウェルテルの悩み』は、明治以来、50を超える邦訳が出ているという。

 ウェルテルのような「疾風怒涛」の青年期を、明治の学生は内面化していったのだろう。旧制一高の学生、藤村操(16歳)が、人生は「不可解」だと書き残して華厳の滝で自殺したのは1903(明治36)年である。その後、華厳の滝で後追い自殺が続き、185人が自殺を図ったという。
http://www.yomiuri.co.jp/yomidas/meiji/meiji33j.htm

 戦前、中等教育や高等教育の中ではぐくまれた「自分は何者で、何を欲しているのか」という「存在論的」苦悩。精神科医の斎藤環は、そうした「内省の構造」が「大衆レベル」で共有されていく時代が「モダン=近代」だと言う(苅谷剛彦編『いまこの国で大人になるということ』紀伊国屋書店、2006年、271頁)。かつてのインテリやエリート学生の苦悩が、戦後、中等教育・高等教育の普及とともに、「大衆レベル」にまで広がり、普遍的な価値のあるものとして理想化されていったのだろう。

 しかし、多くの若者がこうした「内省」する青年期を手に入れることが可能になった、まさにその時代ー1970年代に、「疾風怒濤」の青年期は、逆にその輝きを失っていくように思う。
 それは、青年期論が描き出した青年期の葛藤や苦悩が、つまるところ、エリート学生を中心とした文化であり、メンタリティだったからだろう。エリートといっても、おそらく、学歴を得ることによって社会的なステータスを獲得せざるを得ない中流階層のエリート文化である。
 青年期の葛藤は、エリート文化であるがゆえに、尊いもの、価値のあるものと見なされていた。同時に、ごく一部のセレブではなく、中流階層の文化であるがゆえに、多くの若者にとって、手に入れることが可能なものに思われてきたのだろう。
 しかし、大学が大衆化した1970年代においては、そうしたエリート文化は急速に廃れていく。学生であることがすなわちエリートの証明とはならなくなった70年代の学生にとっては、青年期の内省は、普遍的な価値や理想としての輝きを失い、スノビズムの臭いが漂うものとなる‥‥

 ちなみに、私が大学に入ったのは1970年代の末。大学1年になったばかりの時、上級生が大学生はエリートかどうかについて議論していたことがあった。そのうちの1人が「エリートだと思う」と答えていたのが印象に残っている。私はその時、「へえ〜、そうなんだ」と思ったような気もするし、「え〜、そうかな」と思ったような気もするし。
 今思えば、そんなことが議論になる最後の世代かもしれない。おそらく、今の大学生の多くは、大学生がエリートなんて思っていないだろう。


青年期の「没落」

 竹内洋は、全共闘運動後の
1970年代に、大学から「教養主義」が駆逐されていくと言う(『教養主義の没落』中公新書、2003年、220頁)。青年期のイメージも、教養主義の没落とともに、崩れていったのだろう。
 竹内によれば、学園紛争を担った団塊の世代は、高度成長期の大学進学率の上昇によって、大卒の学歴を手にした「大卒第1世代」である。その大卒第1世代は、卒業後、インテリやエリートとしての将来が保障されなくなったサラリーマン世代でもある。そうした大卒第1世代が、旧来のインテリ・エリートに対する屈折した怨恨(ルサンチマン)憧れと憤怒をぶつけたのが、全共闘運動だというのである。

 おそらく、高度成長期までは、知識人と大衆、中央と地方、都市と農村との間で、経済的・文化的な格差が見えやすい形で存在していたのだろう。性や世代や階層による格差も。それゆえ、ルサンチマンが蓄積し、エネルギーとなる。竹内は、「教養主義の輝き」は、「農村と都会の、そして西欧と日本の文化格差をもとにしていた」と言う(218頁)。
 しかし、都市への人口集中、サラリーマン化の進行、大学の大衆化などによって、1970年代以降、そうした格差はあからさまには見えなくなっていく。それとともに、教養主義も、そして青年期の葛藤や苦悩も、「没落」していったのだと思う。

 もっとも、金原瑞人は、1970年代は「教養の多様化」であって、「教養の崩壊」ではないと言う。そして、「多様化によって生まれた新しい教養」を、「サブ・カルチャー」と呼んで特別扱いにしてきたことを、教養主義的なメンタリティから離れられない人々の「軽薄と怠惰」として批判する(『大人になれないまま成熟するために』(洋泉社新書y、2004年、198頁)。確かにそうだと思う。だけれども、「多様化」と言えるかどうかは、ここでは保留。
 さて、1960年代生まれの「新人類」が大学に入るのが、1978年。その年に、モラトリアムを時代の特性として描いた小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(中央公論新社)が発行される。そして、青年期の「孤独」や「苦悩」が、もはやネクラという「マイナス価値」でしかない(滝川一廣)1980年代を迎える。


青年期が成立する条件

 ということで、なぜ私が「重症」の思春期・青年期を過ごしたかといえば、知識人と大衆、中央と地方、都市と農村、階層、性、世代などの格差がいまだ大きかった時代に、都会や学問といったものにあこがれて育った田舎の「文学少女」だったからだろう。
 3人姉妹の長女というのも、私には重圧だった。「長女だから」とか「後継ぎだから」とか、親戚の人たちが口にするたびに、「戦後、民法は変わったはずだ」と、心の中でつぶやいた。今思えば、学校や本やテレビから伝わってくる近代的な文化と、自分の身の周りにある田舎くさくて古くさくて閉ざされた文化との狭間で、もがいていたように思う。

 こんな私の思い出話は、ある年代にとってはありふれた話だ。文化的・経済的格差がまだ大きかったにも関わらず、その格差が揺れ動いていた時代。地域や家に、その揺れを押し止めるだけの権威や拘束力がなくなっていった時代。 そして、 文化や知識や教養が価値あるものとして光り輝き、かつ、それを手に入れることが不可能ではないと思えるようになった時代。 そうした時代、つまり、1950年代から60年代に育った人にとっては。

 だが、もはや私のような青年期を過ごす若者はそれほどいない。今は、80%の人々が都市部に暮らし、70%以上の若者が、2022歳頃まで大学や専門学校などに在学する。大学は、さらに大衆化し(ユニバーサル段階)、大学の教える知識・教養と「大衆文化」や「サブカルチャー」との格差は小さくなった。
 子どもと親との学歴格差も縮まり、それとともに、親と子の価値観の格差もそれほどなくなった。NHK1982年の調査では、「結婚式までは性的まじわりをすべきでない」という項目に対する中高校生と親の意識の差は、なお大きかった。「すべきでない」と答えたのは、母親61%、父親49%に対し、中高校生は23%。それが、2002年の調査では、母親16%、父親15%、中学生11%、高校生10%。親は寛容になり、世代間のギャップは小さくなった。
 おそらく、こうした社会では、既存の文化や価値観との葛藤・対立を経て、自分のアイデンティティを獲得していくといった青年期のモデルは成り立たなくなっているのだと思う。青年期の葛藤や反発をもたらした社会的・文化的条件がなくなったのだ。

 そもそも、青年期論が描いてきたモデルは、階層、世代、地域、性によって大きな格差がある時代に、世襲の確かな財力・家業を持たない中産階級のエリートが、自らの地位と役割を獲得するまでの心理的プロセスをモデルにしたものだっただろう。
 そうしたモデルが、新制中学校の制度化と高校進学率の上昇とともに、「一般的」「大衆的」な青年期として全ての若者に当てはめられるようになったのである。それまでは、中流階層のエリートとは異なる大人になり方や自立の仕方があったはずなのに、である。
 だが、1970年代には、中等教育も高等教育も、そうしたエリートたちの場ではなくなった。中流階層のエリートをモデルにした教養主義的な青年期論が、以後の若者にそのまま当てはまるわけはない。
 

 小谷敏らによれば、1970年代の「青年論」は、大人になることを当然の前提としていたのに対し、1980年代に入ると、「大人への移行期としての青年」という観念を必ずしも前提としない「若者論」に変わっていくという(『若者論を読む』世界思想社、1993年)。
 なるほどと思う。だが、にもかかわらず、教育関係では一貫して「大人への移行期」として青年論が説かれてきた。現代社会の教科書や文部省編の本がそうであるように。
 それはなぜなのか。発達や成長を研究課題とする分野だから仕方がないのかもしれない。あるいは、青年期論を説く人々が、いまだ教養主義的なエリート文化を生きているからなのか。
 そうであれば、教育学は説教臭い若者批判を繰り返し続けるしかなくなってしまう。それでいいわけはないと思うのだが。