IMG_1079


5月に娘が拾ってきたビジ(♀、左)と、6月に家の前で拾ったパチ(♂、右)。
太ったおっさんのちょびと、なぜか3匹もうちにネコがいます。


* * * * *






家族に対する「国家の介入」について

日本教育政策学会『日本教育政策学会の20年』2013.7



 私は、少子化対策や児童虐待対策、青少年政策など、主に子どもや家族に関わる政策や法制度について研究している。教育政策研究としてはかなりマージナルでマイナーな領域だが、これらの制度・政策について調べる中で、ずっと気になってきたことをここで書きたいと思う。それは、家族に対する「国家の介入」についてである。

* * * * *


 これまで家族は、どんな時代にもどんな社会にも存在する人類の普遍的・自然的な血縁集団であると捉えられてきた。近代社会では、それゆえ家族は国家などの公権力が介入しえない(すべきではない)国家以前の私的領域と見なされている。だが、近年の女性学や家族史、社会史研究は、このような家族研究のパラダイムを大きく転換させている。そうした研究の成果に学びながら、私なりに近代社会における家族と国家の関係を捉えると、以下のようになる。

 前述のように、近代社会では家族は公権力が介入を忌避すべき私的領域として理解されてきた。だが、同時に家族は国家・社会の基礎単位とも見なされている。考えてみるとこのことはかなり奇妙なことに思える。国家が介入しえない私的領域であるはずの家族が、なぜ国家・社会の基礎単位なのか。

おそらくそれは、近代の国民国家こそが性と血縁という「自然」を紐帯とした血縁者の集団として家族を編成したからだろう。それによって、国民国家は子どもの養育や教育、構成員の扶養といった、国民および労働力の再生産やケアを「自然」の責務として家族に課し、そうした責務を自ら自発的に担う集団として家族を制度化した。すなわち、家族はそもそも自然の関係だから、国家が関与し得ない私的領域なのではない。近代社会において、自らの自然の任務を自発的に果たす血縁者の集団として編成されたがゆえに、家族は国家が介入を忌避すべき私的領域として位置づけられたのである。

 それゆえ、近代の国民国家は全ての国民の家族関係を把握しつつ、家族が自らの責務を果たしているかどうかに常に関心を払ってきた。次世代の国民と労働力の再生産は、家族にとっての課題というより、実は国民国家の重要課題だからである。したがって国民国家は、ある時には家族に介入して自らの責務を果たすよう求め、そのための規制や統制を行なうとともに、自らの責任として家族に対する経済的支援や生活保障を行なってきた。しかしまたある時には家族への不介入を決め、自己責任や自助努力を要求し、家族がかかえる問題を放置してきた。こうした戦略がどれほど成功しているかはさて置き、近代の国民国家は家族を私的領域と見なしながら、否、私的領域と見なすことによって、介入政策と不介入政策を使い分けつつ、家族を国家の関与・統制の下に置いてきたのである。

* * * * *


 このような家族研究の新たなパラダイムは、家族に関する歴史認識を変えるだけでなく、政策研究に対しても認識の転換を迫るものと思われる。それは、家族に対する国家の介入・不介入をどのように捉えるかに関してである。

 反省を込めて言えば、これまで政策研究は、一方で、国家に対して社会保障の拡充や経済的支援、法制度の整備といった家族への介入や支援を求め、他方で、国家が家族に介入することを批判してきた。その前提には、再生産やケアという国家的・社会的任務を担う家族と、国家が介入し得ない私的領域としての家族という二つの家族像がある。政策研究は政策と同様、この二つの家族像を使い分けることによって、国家の介入に関するアンビバレントなスタンスを容認ないし放置してきたのである。

 しかし、前述の家族研究の新たなパラダイムは、政策研究に対して、こうしたアンビバレントなスタンスの問い直しをせまる。先のパラダイムに立てば、国家の家族への介入そのものを否定することはできない。近代社会において家族は常に国家の関与・統制の下にあり、したがって、そもそも国家が関与しえない領域ではありえない以上、国家の介入がそれ自体として問題だということにはならないからである。しかも、家族を国家が関与できない私的領域として捉えていては、国家に対して保護や支援を求める正当な論理を導き出すこともできない。

 だが、このことは、国家の家族への介入をそのまま肯定するということではない。家族に対する国家の介入は、管理や統制の強化はもちろん、それが経済的支援や生活保障、児童虐待対策やDVの防止など、人々の権利を保障するための法制度の整備であっても、家族を国家・社会の基盤とする国民国家としての家族戦略の一環として対象化しなければならない。一見、家族の私的自治や自由を保障するかのような不介入政策についても同様である。

 つまり、近代社会において家族は常に国家の関与・統制の下にある以上、政策研究は国家の家族への介入それ自体を否定するのではなく、国家の介入をいわばデフォルトとして設定する必要がある。その上で政策研究は、国家がなぜどのように家族に介入しようとしているのか、それがなぜどのように問題なのかを明らかにしなければならない。そして、このことは逆に、国家がなぜ家族に介入しようとしないのかという新たな問いを生み出し、さらには、家族に対して何のためにどのように介入することが求められるのかを、政策研究の正当な課題として位置づけることになる。

* * * * *


 国家の家族への介入について以上のように捉えた上で、もう一つ気になっていることがある。それは、政策がどのような現状認識をもとに、どのように家族に介入するかに関してである。

 たとえば、こういうことである。政策研究の通説では、家族政策は高度成長期以後に登場したとされる。それは経済成長にともなう産業化や都市化、核家族化によって家族機能が大幅に低下したために、国もいよいよ家族機能の補強に取り組まざるを得なくなったからであると。政策研究がこのように家族機能の低下に家族政策登場の根拠を見出すのは、国の政策こそが家族機能の低下をもたらした原因だという認識が前提にあるからだろう。家族はそうした政策のいわば犠牲者と見なされる。

 しかしながら、厚生省人口問題研究所の研究報告書である『家族機能とその変化に関する研究』(1992年、1993年)は、家族機能の低下は理論研究では多々指摘されているものの、それを直接実証した研究は皆無に近いと分析する。しかも、『厚生白書』が主張する家族機能の弱体化の根拠は、唯一、白書が求める理念的な望ましい家庭像にすぎないと述べる。この研究結果からすると、高度成長期以降、政策が繰り返し指摘するようになった家庭機能の低下は、実はエビデンス・ベイストな現状認識ではなく、政策がある時代状況の中で、あるべき家族像に基づいて描き出した戦略的な政策認識だということになる。すなわち、家族機能が低下したから家族政策が登場したのではなく、政策が家族機能の低下を政策上の問題として取り上げるようになったがゆえに、家族政策が登場したのである。とすれば、これまでの政策研究はこのことを見過ごしたばかりか、政策と現状認識を基本的に共有することによって、家族政策の登場を正当化してきたことになる。

 したがって、なぜ政策が家族機能の低下を問題にするのかこそが問われなくてはならない。それはおそらく、本田由紀が後藤和智との対談の中で指摘しているように、「誰かがダメだ」という「ネガティヴな定義」をすることにより、「権力が介入できる余地」が広がるからだろう(後藤和智『「若者論」を疑え!』宝島新書、2008)。高度成長期以降の家族政策は、家族の機能低下、つまり、「家族がダメだ」と主張することによって、家族に対して本来の機能と責任を自発的に果たすよう求めつつ、同時に家族への規制や統制を強めてきた。家族や子どもに対する政策のこうしたネガティヴな評価の前提には、家族に介入し、家族を望ましい方向に変えようとする政策の戦略がある。政策と同様に、家族の現状を否定的に捉え、その原因と責任を国家に帰すことによって政策批判を行ってきた従来の研究は、このことについてどれだけ自覚的だっただろうか。

* * * * *


 高度成長期以後の家族政策が生み出したこうした戦略は、その後、ますます拡大強化され、しかも、かなりの程度、「功」を奏しているように思われる。とりわけ近年、子どもをめぐる様々な問題が社会問題化する中で、親や子どもや教師・学校に対する否定的な見方が人々の間に広がり、そのような世論の形成をテコに、次々と法制度の制定・改編が進められている。

 たとえば、2000年に戦後初めて少年法が改正されるが、その当時、マスコミはこぞって少年犯罪の「凶悪化」や「低年齢化」を書きたて、政策も子どもや親の現状をきわめて否定的に描き出した。同年制定の児童虐待防止法の場合はなおさらである。政策もマスコミも研究者も、一斉に虐待が「増加・深刻化」しているとし、核家族化や都市化による家族の孤立や育児不安の増加がその主な原因であると主張した。また、2006年の教育基本法改正の際には、家庭や地域の教育力の低下、子どもの規範意識や学ぶ意欲の低下などが改正理由として挙げられ、その結果、家庭教育に関する条文(第10条)や、学校、家庭、地域住民の連携協力に関する条文(第13条)が新たに設けられた。現在のいじめに関する立法も、同様の流れの中に位置づく。

 このような政策動向を見るにつけ、想起されるのは少年法改正をめぐるかつての論争である。周知のように、少年法の改正は1960年代半ばから約10年を費やして法制審議会で議論された。だが、結局のところ改正に至らなかったのは、少年による殺人事件が今日よりはるかに多かったこの時代にあってすら、少年非行が凶悪化しているかどうかが大きな論点の一つになっていたからだろう。当時、法務省は少年非行の凶悪化を主張したが、最高裁はそれに真っ向から反論した。研究者や弁護士もマスコミも凶悪化説に対してかなり批判的だった。今日と違って、凶悪化説はそれほど支持を得ていなかったのである。逆に言えば、子どもや家族に対する否定的な見方の拡大・浸透が、近年の法制度の制定・改編を可能にし、国家の家族への介入をかつてなく容易なものにしているのである。

* * * * *


 しかしながら、前述のように、ここで国家の家族への介入それ自体を批判したいのではない。そうではなくて、近年の政策のあり方や家族への介入の仕方を問題にしたいのである。

 近年の政策は、子どもや家族の現状を否定的に描き出すことで、問題の主な原因と責任を家族に還元する一方、自らは責任を免れる。そしてそれによって、親や子どもへの処罰感情を増幅させ、家族に対する介入や管理・統制の強化を正当化する。しかも、介入の対象は問題とされる家族にとどまらない。たとえば今日の虐待対策は、虐待は「どんな家庭でも起こり得る」という、「善意」ではあるが、きわめて単純化され、誇張され、それゆえ誤った現状認識をもとに、幼い子どもを育てるすべての家庭に介入しようとする。結果、児童相談所への虐待の相談件数の急増に示されるように、問題は解決に向かうどころか、増大し拡散することになる。

 その一方で、虐待対策は虐待の背景にある貧困については全く言及しない。したがって、貧困の解消は課題にすら挙げられない。都市化・核家族化による家族機能の低下が、虐待問題の原因だと考えられているからである。それゆえ、最も必要とされる支援が、最も必要としている家庭に届かない。かくして、家族を否定的に捉え、問題の原因と責任を家族に求める近年の政策は、現状認識を過っているだけでなく、いたずらに家族への介入と統制を強める。しかも、問題を解決するどころか、かえって拡散・拡大させるのである。

 それだけではない。もう一つ大きな問題がある。それは、こうした政策はせいぜい問題に対する対症療法や弥縫策に止まるということである。現状の問題をあげつらうばかりで、将来のビジョンや社会構想がない。つまり、「志」が低い、あるいはないのである。

 たとえば、今回の生活保護法の改正は、わずかな「不正受給」をさらに減らすために支給額全体を削減するものであって、いかに国民の生活を保障するかというビジョンに基づくものではない。また、子ども手当(児童手当)をめぐっては、少子化対策として有効かどうかや、財政問題に議論が集中し、子どもの出生と育成を国家と社会がいかに保障するかという議論にはほとんどならなかった。18歳成年制度も同様である。法制審議会は2009年の答申で18歳成年制度の導入を打ち出したが、その際最も議論になったのは、今の若者が精神的に成熟しているかどうかだった。だが、18歳成年制度はメンバーシップを若者に拡大することによって、どのような国家・社会を創るかという問題である。法制審議会が議論すべきは、若者の成熟度ではなくて、将来の社会構想についてだっただろう。

* * * * *


 もちろん、政策は子どもや家族に関して現状や問題をきちんと把握しなくてはならない。そして、必要な場合には、家族に介入して問題を解決しなければはならない。一方、政策研究は政策がどのように現状や問題を把握しているのかを注視する必要がある。当たり前のことだが、問題の把握や分析の仕方自体に政策の意図や戦略が潜んでいるからである。

 しかし、政策がめざすべきは個々の問題の解決だけではない。その先にどんな社会や将来を築くかという社会構想がなくてはならない。にもかかわらず、近年の政策が社会構想を持たない対症療法にすぎないとすれば、政策研究はそうした政策の行き着く先を見通す必要がある。虐待は「どんな家庭でも起こりうる」という認識をもとに、家族に対する介入を強める政策がどのような社会を創り出すのか。私はどうも空恐ろしくてならない。